白瀬隊を知らせたい!!

第2回 「白瀬南極探検隊序曲」



 白瀬矗は文久元年(1861)、今から150年前、旧金浦町の浄土真宗のお寺「浄蓮寺」の長男として生まれ、幼名は知教。

 この知教少年、成長するにしたがい手に負えない腕白坊主に成長、その腕白ぶりは度をこしていた。例えば、キツネを生け捕ろうとして尻尾をもぎとったり、御寺の本堂にひっかった凧を取ろうとして、真っ逆さまに転落し気絶したり、沖に停泊している北前船の船底の潜りぬけに失敗し、九死に一生を得るというような、命にかかわる腕白ぶりで、いつも母親をハラハラさせている子どもであったという。

 知教は8才のとき佐々木節斎の寺小屋に入る。日々腕白に明け暮れる知教に節斎は「お前はガキ大将で威張っているが井の中の蛙だ、世界を見渡せば勇気のある立派な人達が沢山いる」そういってコロンブスやマゼラン、それに北極探検で有名なジョン、フランクリンの話をきかせる。知教はそれを聞いて「西洋人にできて日本人にできないわけがない」と言ったという。節斎の話が知教を極地探検に駆り立てるきっかけとなったと言ってもよい。

 知教は探険家になるには軍隊に入るのが一番という節斎の教えに従い、お寺を弟の知行に譲り、東京日比谷にあった陸軍教導団騎兵科に入団する。このとき自ら知教を矗に改名、この改名はお寺の後継ぎを放棄することを意味し、北極探検に対する不退転の決意を示したといえる。

 白瀬の陸軍生活は13年に及ぶが、児玉源太郎将軍と遭遇したことが、白瀬にとって、北極探検に対し意を強くしたと言ってもよいだろう。児玉は北極探検をするには、まず、千島や樺太の極寒を体験し、身体を鍛え、経験を積んで、探険家として世間から認められることが先決だと諭し、白瀬の探検に陰ながら支援することを約束した。

 明治26年8月、白瀬は海軍大尉郡司成忠の率いる報效義会の千島探険に加わり、千島列島最北端の占守島に上陸、島の調査や密漁船の監視にあたる。島での生活は厳しい寒さとの戦いだった。それに新鮮な野菜の欠乏は壊血病を患い、隊員を苦しめた。明治28年3月には食糧も乏しくなり、5月には6人の隊員のうち3名が壊血病で亡くなるという悲惨なものだった。千島探険は惨憺たる結果に終わったが、この体験が後の南極探検に大きな自信となって活かされることになる。

 明治42年9月、アメリカの探険家ピアリーが北極点到達のニュースが飛び込んでくる。白瀬にとって大きなショックだった。佐々木節斎から探険家になるための五訓(1 酒をのまない、2 茶を飲まない、3 お湯をのまない4 たばこを吸わない、5 寒中でも火にあたらない)を守り、児玉将軍からの千島探険を経験し身体を鍛え、いざこれからだという矢先であっただけに、落胆と失望は想像に難くない。気を取り直した白瀬は北極がダメなら南極があると、目標を180度転換し南極を目指すことにする。白瀬は48歳に達していた。当時の平均寿命が50歳そこそこと考えると旺盛な精神力、探究心には驚かざるを得ない。

 探険家白瀬を研究するなかで、探険家としての要素である強靭な体力と不屈の精神力は天性のものとしても、彼を育てた自然環境と、明治という時代背景を無視することはできない。白瀬の生れ育った当時の金浦は寒村そのものだった。白瀬は自叙伝のなかで「前には日本海の怒涛を聞き、後にキツネや狼の声を聞きながら育てられた私は、いつの間にか物に動ぜぬ気性と艱難に打ち勝つ意志の強さを授けられた」 また「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切りそろえた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇がでようが、熊が出ようが、前人未踏の境を跋渉したい」これは探険家白瀬を育てた自然環境と素地をすべて言いつくしているといってよい。そして何といっても、明治という時代である。明治維新はすべてを一新し、封建時代の鬱積したエネルギーが国運の上昇とともに海外へ飛び出そうとしていた。なによりも青年たちは将来に向って大望を抱いていた時代でもあった。司馬遼太郎の言をかりれば、国民一人一人の精神が外部からの強制ではなく、型にはまった教育の結果でもなく、それぞれが感ずるところに従って自由に躍動した時代だという。

 明治の三大壮挙といわれる郡司大尉の千島探険、福島中佐のシベリア単騎横断、白瀬中尉の南極探検はその表れといってもよいだろう。






筆者

南極探検隊長白瀬矗顕彰会 副会長

佐藤 忠悦






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