白瀬中尉の南極探検

白瀬中尉の生涯と南極探検(5)晩年~現代の南極観測

文責:佐藤 忠悦(NPO法人白瀬南極探検100周年記念会 監事)



アムンセンとの会見

 昭和2年6月、報知新聞社の招きでアムンセンが来日し、白瀬と会見しますが、貧困のどん底の白瀬は、洗いざらしの浴衣(ゆかた)にその日やっと手に入れた夏羽織の姿だったといいます。正に「赤貧洗うが如し」でありました。

 アムンセンは「おお開南丸 開南丸」と手を差しのべましたが、白瀬の目にはうっすらと涙が浮かんでいました。

 当時の心境を

 「恵まれぬ 我が日の本の探検家、パンを求めて処々転々」

 と白瀬は詠んでいます。


 昭和10年、借金をほぼ返済しますが、その後も生活は楽ではありませんでした。

 昭和19年8月に、生まれ故郷金浦を終(つい)の棲家(すみか)として帰ってきますが、翌年の9月に家族会議と称して埼玉県片山村に行き、二度と金浦に戻ってくることはありませんでした。


 昭和21年9月4日、波乱万丈の生涯を愛知県挙母町、現在の豊田市で閉じます。

 辞世の歌は

 「我なくも 必ず捜せ南極の 地中の宝世にいだすまで」


 また、開南丸は探検後、元の報效義会に買い戻されますが、大正4年の秋、千島から台湾に鮭を輸送した帰りに、紀州沖で座礁し沈没しています。開南丸もわずか4年半の波乱に満ちた終焉でした。


國際地球観測年と日本の南極観測

 昭和30年(1955)、国際地球観測年に関わる南極会議がベルギーのブリュッセルで開かれました。

 日本は南極観測の参加を申し入れますが、すんなりと受け入れられた訳ではありません。 戦後10年、独立(サンフランシスコ講和条約1951)してからわずか4年しかたっていない日本に対して、関係国は「国際社会に復帰する資格はない」という発言が多数あったといいます。

 会議に出席した永田東大教授は白瀬隊の実績を述べ、また、日本の地球科学に対する過去の実績と熱意を述べて、何とか南極基地を設け南極観測に参加することができました。

 このことを考えると、白瀬の南極探検なくして、日本の南極観測はあり得なかったといっても過言ではありません。



(4)二度目の挑戦~帰路






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